聖ポール天主堂に無事到着。
聖ポール天主堂は1602年にイエズス会によって創建された教会。
1835年の火事で焼失し、現在は全面の壁と階段だけが残っています。
この聖ポール天主堂の建設には江戸幕府によって日本を追放された日本人キリシタンも携わっているそうです。
また、聖ポール天主堂の地下にある納骨堂には日本人殉教者の骨も納められているのだとか。
マカオを代表する観光地とあって、聖ポール天主堂付近にはとにかく人、人、人、人。
一体どこからこんなに人が集まったんだ?というくらい人だらけです。
聖ポール天主堂をそのままくぐり、裏へ回ると博物館のような入口があります。
そのまま入ると、地下は天主教芸術博物館になっており、宗教美術品が展示されていました。
聖ポール天主堂の裏側はこの通り、しっかりと補強されています。
なんだか今にも崩れそうな危うさがありますが、見えないようにちゃんと支えられていたんですね。
まるで、舞台のセットのようです。
聖ポール天主堂から歩いて3分ほどのすぐ脇にあるのがナーチャ廟と旧城壁。
聖ポール天主堂のすぐ近くにあるにも関わらず、ここまで足を運ぶ人はほとんどいません。
ナーチャ廟は1888年創建のお寺だそうです。
ナーチャは西遊記や封神演義にも登場するやんちゃな男の子の名前。
疫病が蔓延した際に、その厄除けとして祀られたのだとか。
見逃してしまいそうな小さなお寺ですが、世界遺産です。
さらに同じく世界遺産の旧城壁。
17世紀にポルトガル人によって建てられたものだそうです。
中国本土やヨーロッパの城壁のように石造りの堅牢なものではなく、土を塗り固めたような城壁です。
調べてみると、土砂、わら、カキの貝殻を混ぜたシュナンボーと呼ばれる素材で作られているのだとか。
確かによく見ると、貝殻のようなものが混じっているのが分かります。
ポルトガル人が建てた城壁の傍らに、中国寺院が建っているという、マカオならではのスポットです。
続いて、聖ポール聖堂のすぐ近くにあるモンテの砦です。
1617年から1627年にかけてイエズス会によって築かれた砦とのこと。
砦と言うことで小高い山の上にあるのですが、現在は砦の下は博物館になっています。
博物館の入り口まではエレベーターですいーっと行けるので、運動不足の僕には大変ありがたいです。
砦からはマカオの市内とさらにその向こうにある、中国の珠海市の町が一望できます。
モンテの砦からは僕たちが宿泊しているグランドリスボアも見えます。
砦に設置された大砲は海の方角を向いていて、なんだかホテルが狙われてるみたい……。
モンテの砦からやや歩いて到着したのが聖アントニオ教会です。
1638年に創建されて、現在の建物は1930年に建てられたものとのこと。
観光客はほとんどおらず地元の信者の方がぽつりぽつりといる程度。
しんと静まった穏やかな教会内の空気に、疲れも癒されます。
さらに世界遺産、ルイス・カモンエス広場を目指します。
ルイス・カモンエス広場はどこだ?と探したら、何のことは無い、自分のいる広場がルイス・カモンエス広場でした。
ルイス・カモンエスはポルトガル史上最大の詩人と呼ばれており、ポルトガル紙幣にもその肖像が印刷されていたのだとか。
ルイス・カモンエスにちなんで、ポルトガル語文学のカモンイス賞という文学賞もあるみたい。
このカモンイス賞、ポルトガル語作品の中ではノーベル文学賞に匹敵する賞というからスゴイですよね。
ルイス・カモンエスのマカオ滞在期間は1557年から1559年のわずか2年ですが、いかにその影響力が大きかったかが分かります。
しかし、ルイス・カモンエス広場、言われなきゃ絶対に世界遺産なんて分からないですよ。
ルイス・カモンエス広場に隣接しているのが、カーサ庭園です。
庭園の奥にはお屋敷も見えます。
なんだか個人の邸宅のようで入りづらい雰囲気ですが、一般に開放されており見学は自由です。
ちなみにお屋敷には入れません。
このカーサ庭園はもともとイギリス東インド会社のマカオ本拠地だった場所だそうです。
一歩足を踏み入れると、マカオにいることを忘れてしまいそうなくらい、ヨーロピアンな庭園が広がっています。
落ち着いた雰囲気の教会とはまた違った、華やかな雰囲気です。
紅茶とか飲みながら庭を眺めて過ごせたら、優雅な気分に浸れそう。
さらにカーサ庭園の出入り口のすぐ脇に、小さな入り口。
従業員出入り口のようにひっそりとあるので、「あ、ここ入っちゃダメなところだ」とスルーしそうになります。
が、この小さな入り口をずんずん進んだ先がプロテスタント墓地。
墓地ということで、あまり目立ちませんが、このプロテスタント墓地も世界遺産です。
このプロテスタント墓地は1821年に造られており、大航海時代よりもちょっと後の年代です。
プロテスタント墓地ということで、主にマカオで亡くなった外国人のお墓です。
墓石をたどると、実に様々な国の人のお墓があることにビックリ。
当時のマカオがいかに国際交流の盛んな海洋都市であったかが分かります。